チャドウィックポーズマンさんが
亡くなられましたね。私にとっては主にMCUの映画『ブラックパンサー』で親しんでいた俳優さんで、それ以上と言うのはおこがましい方なんですが。
亡くなった方にかける言葉が、いつもわかりません。亡くなった方はもういないのだから、言葉もかけられないので、正確には不在を知る者たちで共有する言葉、悼む言葉ということですけど。不在になった途端に思い入れを込めるような態度は(とはいえ外側から本当の思い入れなんて測れないわけだから、勝手に断じることもできませんけど)全然好きではないですし、型に嵌った表現も大袈裟な表現も、少なくとも見知らぬ他人がわざわざ表明することなのかわかりません。それで慰められることは、そりゃあるだろうけど、私にはない気がしてしまう。
しかし、数日たっても、不在を強く感じまして、私は今まで死というものをそこまで強く実感したことがないので初めての感覚に慌てふためき、文章まで書いてしまっています。そういう自分の為の文章なので、本当に不謹慎ですね。やめようかな。
しかし、どれほど真摯な文章を書こうとも、Chadwick Bosemanさんへの言葉にはならないわけですよね。彼はもういかなる言葉も受け取れないんですよね。まあ受け取られる言葉だけがその方へ向けた言葉になるのかというとオタクとしてはそうではないと言いたくなりますけど、いない方に向けた言葉なんてのは、ありうるんでしょうか。いらっしゃらないわけですから。いらっしゃらないんですよ。どんな暴言も独りよがりなポエムも彼には届かないんですよ。いないから。
死んでしまったなんて。
いなくなるというのは、現れる前に戻るというのとは違うんですね。何故違うんでしょう。穴がぽっかりそこにあるような気がしますね。いないのに。そもそも、穴があるって表現は不思議ですね。穴って、無いことなのに。
彼の不在を、どうしたらいいでしょう。不在も、無いことなのに、起こっていることのように感じますね。これからずっと、Chadwick Bosemanさんの不在は起こり続けてしまう。穴があり続ける。その穴に対して、私たちは何かし続けなければいけない。もういないのに。
重ねて言いますが、彼の為ではありません。彼の為にできることはもうありません。彼はもう何も受け取ってくれない。死んだ人のために何か出来るかのような言葉は、死の重大さに対して不誠実だと思う。不在が起こり続ける世界に対して、私たちは、